後北条氏の三代目。早雲の孫、氏綱の子。氏綱が一五四一年に死去し、跡目を継ぐ。
氏康というと出てくるのが、一五四六年の川越夜戦である。
一五四五年、関東の覇権をかけて山内上杉と扇谷上杉、それに古河公方も加わり武蔵の川越城を囲った。その数八万。翌一五四六年に迎撃に向かった氏康の軍勢八千。謀略を用いてこれで大勝利を得る。この川越夜戦で扇谷上杉朝定は討ち死、山内上杉憲政も上野の平井城に逃れ、後に越後へ行く。
その後にも甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟、対今川義元・武田信玄)、小田原籠城戦(対上杉謙信・対武田信玄)、第二次国府台合戦(対里見義弘)などを経て武蔵・下総・上野などでの北条家の地盤を確固たるものにしている。
氏康は合戦に於いて名将であったが、氏康の本領は、民政に置いて発揮される。主なるものが検地、通貨統一、税制改革、所領役帳の作成であった。
氏綱から家督を継いだ一五四二年から十二年かけて相模中央部、武蔵東南部・南部、伊豆方面で大規模な『代替わり検地』が行われている。この地方が全て北条家の支配下になったことを示している。
そして、当時は国内に様々な銭が流通していたが、それを永楽銭に統一して、それ以外の銭は悪銭とした。
さらに一五五〇年にこれまでの税を段銭・懸銭・棟別銭の三つに整理し、これ以上の税は取らないとした。そして、この結果を家臣団ごとに書き出したのが『北条氏所領役帳』であった。こうして氏康は領国と家臣団の把握が出来た。
後北条五代約百年の間、身内による内訌が無かったのは、戦国の世において信じ難い事である。氏康は七男をもっていたが、その中でだれも相続権を争おうとはしなかった。小田原合戦の時も強硬派と穏健派に別れ『小田原評定』などと悪名を残しはしたが、ひとたび合戦となると一丸となって秀吉軍を迎え撃った。氏康の薫陶が行き届いていたのだろう。

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