北条家の家紋(三つ鱗)北条の礎を築いた男
北条氏綱
ほうじょう うじつな 1487〜1541
北条家
本名

北条氏綱

出自 伊勢平氏 官位 従四位上左京太夫
役職 1518北条家二代当主となる
戦歴 高輪原・岩槻城・鎌倉・国府台 など
備考 最期 病没(55歳)
 後北条氏二代目。早雲の嫡男、氏康の父。この二人に挟まれ知名度は低いが、早雲から受け継いだ伊豆・相模に加え、武蔵・下総を支配し氏康の関東制覇の地均(じなら)しをしたと言っていい。そして、小田原城を本拠地とし、虎朱印を使い始め、初めて『北条』の姓を使ったのも氏綱であった。北条らしさというのは氏綱の代から生まれる。
 一五一二年の感状発給にて早雲との連署で初めて歴史上に登場するが、それまでのことは全く判らない。氏綱二六歳である。
 一五一八年に家督を相続、翌年に早雲が没してからは関東制覇に向けて奔走が始まる。そのほとんどは扇谷上杉朝興との戦いだったが、他にも小弓御所足利義明、里見実堯・義堯父子、武田信虎、今川義元などとも戦っている。戦場も武蔵を中心に、上総・下総・相模・甲斐・駿河と六ヶ国に渡っている。それらの戦いの果てに江戸城・川越城・葛西城を奪取し、第一次国府台の合戦で小弓御所を滅亡させるなど、戦果も著しい。
 そして、一五二六年に里見実堯に焼かれた鶴岡八幡宮の再建なども行っている。もっともこれは氏綱個人で行ったのではなく、関東の有力武将の参加で行うという形にして、諸将に再建費の勧進を行わせた。これにより北条氏の威を内外に広めると共に、勧進の是非で、親北条派と反北条派の区別するという目的もあった。これは一五三二年に始まり、氏綱死去の前年の一五四〇年まで続いた。

 氏綱は晩年に『五箇条の御書置』と題される遺言状を氏康に残した。その第一条で、
「大将によらず、諸侍とも義を専らに守るべし。義に違いては、たとい一国二国切り取りたりというとも、後代の恥辱いかがわ、天運つきはて滅亡を致すとも、義理違えまじきと心得なば、末世にうしろ指をささるる恥辱はあるまじく候。(後略)」
 と残している(原文は漢文)。『義を捨てての栄華』よりも『義を守っての滅亡』を潔しとしている。同時代の朝倉宗滴が、
「たとえ犬畜生と言われ、そしられようとも、戦になったらどんなに卑劣な手を使ってもいいから勝て」
と言っているのと好対照である。だが、戦国時代ではこちらの方が一般的である。

 『北条』という名門の姓を、悪く言えば騙った為の後ろめたさと、その名を汚すわけにはいかないという律義さが表れている。
 この書置の書かれた二ヶ月後に氏綱は没した。まさしく『書置』となった。

五十嵐氏満さんの花押

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*家紋は播磨屋さんより許可を得て転載しています。