北条氏康の五男。しかし、長男は早世し、三男の氏照と四男の氏邦はそれぞれ大石家と藤田家へ養子に行っているため、公式的な場では氏康の次男と扱われている。
幼少期は今川家への人質としてで暮らす。この時隣に住んでいたのが松平元康(後の徳川家康)だったと言われている。
氏康の三方面軍構想の伊豆・駿河方面の指揮官として伊豆国韮山城城主となる。これは三河の徳川家康と旧知の間柄だったことも影響しているのだろう。さらに、北条綱成の娘を妻としていることもあり、相模三浦郡の支配権を持ち相模国三崎城城主でもあった。この地理的条件からも氏規は北条水軍の頭領でもある。
氏規は北条家の外交担当というイメージが強い。
一五六九年の武田信玄による駿河侵攻に対しての徳川家との同盟交渉、一五七六年に足利義昭の上洛のための甲相越三国同盟交渉(未成立)、一五八二年の同じく徳川家との同盟交渉、そして、一五八八年の豊臣秀吉の上洛要請に応じた上洛。全て氏規が担当している。
だが、単なる外交官ではなく、武将としても有能で、一五九〇年の小田原侵攻を開始した豊臣軍を韮山城で迎え撃つ。当主氏直と同じく非戦・上洛論であったため、臆病者のそしりを受けかねなかったが、豊臣軍が山中・韮山の二城に襲いかかると、山中城は半日で落城したが、韮山城に籠もり四万の豊臣軍を五百の寡兵で守り抜き、徳川家康の勧告で開城したのは、小田原落城の十二日前であった。
小田原が落城した後は、助命され高野山へ行った北条氏直に従ったが、秀吉から和平派の主流としての働きや、韮山城での武勲を認められて一五九一年に河内国舟南郡に二千石、次いで氏直の死後の一五九一年には舟南・河内両郡に六九八〇石を宛(あてが)われ、大名に近い石高を認められた。
一六〇〇年二月八日に五六歳で死去。既に氏直の遺領を継いでいた子の氏盛は父の遺領をも次いで一万石の大名となり、河内国狭山に陣屋を構えて狭山藩の藩祖となった。
扱いが地味になりがちながら常に北条家のことを考えていて、最終的に幕末まで北条の名を残した功績は大きい。

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