地黄八幡北条綱成 ほうじょう つなしげ 1515〜1587 北条家 |
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| 本名 | 本姓:福島(くしま) 北条氏綱から北条姓を与えられる |
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| 出自 | − | 官位 | − | |
| 役職 | 1543玉縄城城主 | |||
| 戦歴 | 河越・深沢城 など | |||
| 備考 | − | 最期 | 玉縄城にて病没(73歳) | |
| 本姓は福島(くしま)、または九島とも。今川家家臣・福島正成の子だが、一五二一年に甲斐で父が武田家武将・原友胤に討たれたため、家臣と共に相模に逃れた。北条氏綱に仕え、氏綱の娘を妻として、北条の姓を与えられる。 稀代の猛将で、合戦になると「勝った! 勝った!」と怒号しながら真っ先に敵陣に突入したという。朽葉色(黄色)の練貫に『八幡』と墨書した旗を指物としていたため、その綱成の姿を『地黄八幡』と呼び、綱成の勇武を誉め称えた。 北条氏康の弟、為昌の後見人として相模国玉縄城城代として入城。実子に恵まれなかった為昌の養子となり、為昌の死後三代玉縄城主となる。 一五四六年の上杉軍襲来(川越夜戦)の時には、攻城軍八万の軍勢に三千の寡兵で川越城にて籠城。上杉方は『地黄八幡』の勇名を恐れ――実際、緒戦では籠城軍が討って出てきて攻城軍の被害が大きかったので――力攻めを避け兵糧攻めにした。綱成は氏康からの「城を守り、後詰めの軍を待て」の指令で半年に及ぶ籠城を耐え抜き、援軍の夜襲に応じて古河公方足利晴氏の陣を攻め、古河へ退却させている。 また、玉縄城の地理的条件からも、奥州の白川晴綱や下総の結城政勝と連絡を取るなど、小田原の氏康の名代として外交手腕も発揮している。 氏康の死後、一五七三年出家して道感と号して、家督を嫡男康成(後の氏繁)に譲った。 後北条家の武の要で、この人がなければ川越夜戦の勝利もなかったろうし、つまりは氏康の代で後北条家が滅びていたかもしれない。
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*家紋は播磨屋さんより許可を得て転載しています。