北条の祖北条早雲 ほうじょう そううん 1432〜1519 北条家 |
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| 本名 | 伊勢新九郎長氏 |
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| 出自 | 伊勢平氏 | 官位 | − | |
| 役職 | ||||
| 戦歴 | 深根城・権現山・新井城 など | |||
| 備考 | − | 最期 | 韮山城にて病没(88歳) | |
| 北条早雲――彼は生存中にこのように名乗ったことはなく『伊勢新九郎』で通していた。 早雲の生国については諸説ある。主なものには、山城宇治、大和在原、伊勢素浪人、京都伊勢氏、備中伊勢氏というところであるが、最近では備中伊勢氏(伊勢新九郎盛時)が有力である。ともかく、早雲は一四六八年頃に駿河国駿府に下った。早雲の妹は駿河の守護大名今川義忠に嫁いでいて、北川殿と呼ばれていた。だが、まだ早雲は『当主夫人の兄』というだけで、特別なことはしていない。 早雲が歴史の表舞台に現れるのはこの八年後の一四七六年。当主の義忠が一揆によって戦死してしまう。この時義忠の息子には竜王丸がいたが、その竜王丸はまだ六歳。家臣の中には義忠の従兄弟である小鹿範満を当主に推す一派が現れ、今川家中は二つに割れた。これに便乗して駿河の支配を図った扇谷上杉定正と堀越公方足利政知が、それぞれ駿府に兵を派遣して圧力をかけてきた。竜王丸擁立派も小鹿擁立派も共に外部の干渉は避けたかった。 そこに早雲が「竜王丸が元服するまでは小鹿範満に家督を代行させる」という折衷案を持ってきたため、両派はそれを受け入れた。これによって今川家は外部の干渉も内部分裂も避けられたのだった。その後、早雲は一旦、京に上って幕府に仕えることになるが、一四八七年に再び駿河へ戻る。この時既に竜王丸は一七歳、既に元服していてもおかしくない歳だったが、小鹿範満からは何の音沙汰もない。北川殿は以前の約束が反故になるのを恐れて、早雲を京から呼び戻した。早雲は密かに駿府に戻り小鹿範満を駿府今川館で急襲した。小鹿範満は討たれ、竜王丸は実力で当主の座に座った。竜王丸は元服して今川氏親を名乗り、氏親によって今川氏は守護大名から戦国大名に転化していく。 早雲はこの恩賞として駿河国駿東郡の興国寺城を与えられて、氏親の後見人として駿河に残った。この時早雲五六歳。当時からすれば既に隠居生活しているような老齢だが、早雲の場合はこれから第二の人生が始まる。 興国寺城は伊豆半島の喉元を押さえる位置にあり、伊豆の状況が手に取るようにわかった。 一四九一年になり後に『豆州騒動』といわれる事件が起こる。 一四九一年四月三日、堀越公方足利政知が死んだ。足利政知の子には先妻との間に生まれた長男茶々丸と、後妻円満院との間に生まれた次男潤童子と三男清晃がいた。円満院は潤童子をかわいがったため茶々丸を土牢に押し込めてしまう。だが、父政知の死に乗じて茶々丸は土牢を抜け出し、継母円満院と潤童子を殺した。清晃は堀越御所から京都へと逃げたため、堀越公方二代目の座についた。だが、継母殺し、弟殺しの茶々丸の人望はなく、家臣とも対立していた。 早雲はその混乱を利用し、伊豆を奪うことを考えていた。自らも修善寺に行ったりして伊豆に関する情報を集めて回った。そして一四九三年、警護が手薄な時期をみて今川氏親からの援兵も得て堀越御所を急襲した。茶々丸は元服することなく自害した。 次に早雲の目は相模国に向かった。西相模の要衝である小田原城には大森氏頼がいたが、早雲も氏頼在命中には小田原攻略はできなかった。その氏頼が亡くなり、息子藤頼が後を継いだところで早雲は行動を起こした。手紙や珍品のやりとりなどで藤頼が気を許したところで、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が小田原城の裏山に逃げてしまった。鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」、という手紙を藤頼の元に届けた。藤頼はこれを許し、早雲は勢子を入れたが、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とした。一四九五年、早雲六四歳のことである。 その後に山内・扇谷両上杉の反抗があり、全てが順調ではなかったが、一五一六年には新井城に寄る三浦義同・義意父子を討ち、相模全土を平定した。既に早雲は八五歳になっていた。 早雲が氏綱に家督を譲ったのは一五一八年、早雲八七歳、氏綱三二歳。この翌年早雲は韮山城で没した。 早雲が書き残した『早雲寺殿廿一箇条』では、通して『上下万民に誠実に接すること』とある。合戦では奇襲や謀略が多い早雲も、領民や配下の諸将には虚言を弄することがなかったからこそ、一〇〇年後の徳川家康も関東移封後に統治に手を焼くくらい領民に慕われることになったのだろう。
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*家紋は播磨屋さんより許可を得て転載しています。