堀家の家紋(釘貫)名人久太郎
堀 秀政
ほり ひでまさ 1553〜1590
斎藤家→織田家→豊臣家
本名

堀秀政(幼名:菊千代・久太郎)

出自 藤原北家利仁流 官位 従四位上左衛門督
役職  
戦歴 越前一向一揆・山崎・賤ヶ岳・小牧・長久手・太田城 など
備考 最期 病没(38歳)
 斎藤家臣から信長の直臣に抜擢される。荒木村重攻め、武田との戦いなどで戦功を上げた。本能寺の変の際には、信長出陣の先駆けとして秀吉の陣中にあり、そのまま、秀吉に随従して光秀と戦う。その後も、佐々成政攻め、四国平定戦で勲功を挙げ、小牧・長久手の役では榊原康政・大須賀康高を破っている。本能寺の変の時は幸運にも秀吉の毛利攻めの陣にいた事からも分かるが、堀秀政にはここぞという時の運の強さがあったのではないか。

 この様な、数々の戦功と律儀な働きぶりから、小田原役後、秀吉は秀政に関八州(武蔵、常陸、上野、下野、両総、房州、相模)を与える事も考えたとか…これが事実で、且つ、あと少し秀政に寿命があれば、家康の関東転封も
なかったのでは…

 また、こんな逸話がある。家臣に泣き面の男がいた。周囲が嫌がり暇を出されてはと進める。が秀政は「法事や葬儀の使者としてうってつけだ。大名の家には色々な者がいていいではないか」と取り合わなかったと。この逸話を見ても分かるが、秀政は家臣の長所、短所をよく見抜き、得か損かをよく考え、また、人の使い方も「適所に適材」を常に心掛けていたのであろう。

 ある秀政を評したものに「倦まず、弛まず、律儀でありながらも、愚直にならず、すぎた野望を持つ事なく、務め上げること」という言葉があるが、こうした人物にも学ぶべき事は多いのではないだろうか。

オヤジッチさんの花押

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*家紋は播磨屋さんより許可を得て転載しています。