畠山家の家紋(村濃)畠山再興
畠山義綱
はたけやま よしつな 1535〜1593
畠山家→豊臣家(?)
本名

畠山義綱

出自 清和源氏足利流 官位 従四位上修理太夫
役職  
戦歴  
備考 最期 病没(59歳)
 畠山義続の嫡男。妻に六角義賢の娘を持つ。父義続が早々に隠居し、義綱は幼くして家督を継承し、混乱期の畠山家の当主となった。1551年に父義続が畠山七人衆に実権を奪われ、大名権力を回復を目指し義続は暗躍するために義綱に家督を譲り、自らは後見人として暗躍した。そのころの義綱は重臣と義続の駆け引きの間にあり傀儡君主となっていた。

 そんな義綱に自主的行動が見え始めるのが1555年の弘治の内乱からである。

 以前から専横な振る舞いで実権を握る重臣温井紹春が一層の権力拡大をもくろんだ為、義綱は彼を殺害。それに伴う温井家の反乱が弘治の内乱である。戦況は温井軍有利に進み、義綱軍は一致団結の必要から義綱のイニシアチブが確立する。義綱は七尾湾の制海権や奥能登の維持に努める一方、土豪の再掌握を通じて軍備を強化したほか、七尾城を増強し五大山城の七尾城を作り上げた。また、1557年には長尾家と同盟を結び援軍を受け温井勢の一掃に成功した。1561年には将軍家への貢ぎ物を通して畠山家の威信回復、神保と長尾の戦を仲介して北陸情勢の安定に勤めた。また、義続以降の内乱の頻発も義綱の専制によって抑制された。しかし、より一層の統制を図ろうとした義綱は1566年重臣に守護職を追われ、近江へ逃亡。この時多くの家臣が義綱に追従してきたことを考えると義綱の人望が伺える。能登を追われた義綱は、能登奪回の為、長尾家と協力して挙兵するが間一髪のところで敗れた。その時、義綱は将軍の軍医であった曲直瀬道三と接触している。彼は政治道義の第一級人物で、挙兵の大義名分を得る為だと思われる。まさに義綱のしたたかさが伺える部分である。後に、秀吉に義綱が寺の門を寄進されたという資料が残っているので秀吉の家臣となったかもしれないが、詳細は不明。

畠山義綱さんの花押

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*家紋は播磨屋さんより許可を得て転載しています。