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鳥取城攻防戦 1581年 (天正9年) 鳥取県鳥取市東町 |
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| 勢力 | |||
| 羽柴秀吉 | 大将 | 吉川経家(自害) | |
| 羽柴秀長 宮部継潤 |
参戦 武将 |
不明 | |
| 20000余 | 兵数 | 1400余 | |
| 勝利 | 勝敗 | 敗北 | |
| 羽柴秀吉は弟の秀長に但馬を攻略させると1580年6月に因幡へ出陣し、山名豊国の居城鳥取城の攻略に着手した。9月11日、秀吉は豊国を誘降したが、家臣の中村春続、森下道誉らは毛利の将吉川元春に援軍を要請し、徹底抗戦にでた。毛利方では秀吉軍に対抗できる人材として吉川経家を派遣した。経家は400余の兵を率い福光城から1581年3月18日に決死の覚悟で鳥取城に入城した。経家は千代川岸に丸山城を築いて兵500余りを配し、雁金山の砦を固め、さらに加露の浦に対戦を常泊させて連絡海路の維持を図った。
一方秀吉は鳥取城の力攻めをあきらめ兵糧攻めを策した。収穫期前6月25日20000余の兵を率いて姫路城を発ち、但馬口より因幡国内に侵入し7月12日には鳥取城を包囲した。まず本陣を鳥取城が一望できる太閤ヶ平(本陣山)に定め、ここより左右両翼と平地に3隊布陣させた。その包囲網は、前後2段に兵を配し、堀には蝿縄をはり、柵や矢倉を築き土塁を連ね、夜間にはかがり火をたいて警戒の徹底を図った。また兵の一番手には数千挺の弓、鉄砲を携行させ海上には警護船を常泊させた。 両軍の最大の攻防は、9月16日、丹後、但馬からの兵糧を輸送していた長岡藤孝、松井康之ら秀吉勢と毛利水軍の衝突であった。この戦いで康之らは輸送船5隻を破壊し、さらに伯耆の泊城を攻撃していた毛利方の船65隻を奪い取った。一方で包囲軍の宮部継潤勢が鳥取城と雁金山砦の連絡路を断ったため鳥取城は完全に孤立無援となり兵糧も枯渇した。そして10月24日、経家は開城し翌日城内の真教寺で自刃した。 この戦いは兵糧攻めの典型とされる。 これで毛利氏は中央へ通じる山陰の進路を失った。 |
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