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長良川の合戦 1556年 (弘治2年) 岐阜県道三塚町 |
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| 勢力 | |||
| 斎藤義龍 | 大将 | 斎藤道三(戦死) | |
| 不明 | 参戦 武将 |
不明 | |
| 17000余 | 兵数 | 2700余 | |
| 勝利 | 勝敗 | 敗北 | |
| 道三には、義龍・孫四郎・喜平次という三人の息子がいました。道三の目からは義龍は巨漢でしたが頼りなく見え、それに比べ弟の二人は利巧者にみえました。ことに三男喜平次を溺愛し喜平次を右兵衛大輔に任官させたりしました。
そのため長兄の義龍は道三が家督を喜平次に相続させるのではないかと疑い、二人の弟を暗殺し、道三に対して兵を挙げました。 二人の弟を殺害した義龍の仕打ちに怒った道三は、1556年4月18日、2700余の兵を率いて長良川湖畔にうってでました。それに対し義龍は17000余の大軍を率い稲葉山城から出陣し、骨肉相打つ親子の戦争が開始されました。 息子の義龍に味方する美濃勢が多かったのは、義龍が前の守護土岐頼芸の落胤と伝えられていたからだといいます。 美濃勢の裏切りを知った道三は娘を嫁がせた尾張の織田信長に、美濃一国を譲るという条件で助勢を求めました。そこで信長はただちに木曽・飛騨の二川を越えて大良(おおら)まで出陣しましたが、結局兵力の差がものをいい道三は信長の到着を前にして、惨敗して果てました。63歳だったといいます。 このとき、道三は義龍の家来の長井忠左衛門に鼻を削がれ、小牧源太に首を切られました。 |
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