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三木城攻防戦 1578年(天正6年)〜1580年(天正8年) 兵庫県三木市 |
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| 勢力 | |||
| 羽柴秀吉 | 大将 | 別所長治(自害) | |
| 羽柴秀長 別所長棟 |
参戦 武将 |
別所吉親(自害) | |
| 不明 | 兵数 | 3200余 | |
| 勝利 | 勝敗 | 敗北 | |
| 羽柴秀吉は、1578年7月20日信長の嫡男の信忠と別所長治の属城神吉を陥れ、翌8月10日に志方城を抜くと、一挙に長治の居城三木城を包囲した。これは長治が再び毛利と通じたからだった。
しかし、大険の要害で、一気の攻略が困難と見た信忠は包囲持久策を秀吉に委ね、自らは岐阜に帰還した。兵糧攻めを図った秀吉は、平井山に本陣を定める一方城下に柵をめぐらし、毛利水軍に通じる補給路を遮断した。 長治は連絡路の確保を策し、翌1579年2月6日篭城兵3200余を前後2隊に編成して、城外に打って出た。しかし、この作戦は秀吉・秀長兄弟に迎撃され失敗に終わった。毛利氏からの糧船二百隻の物資を城内に搬入する手立てがない。そこで、丹生山に砦を築き、支城の淡河と荒木村重の花隈とを結んだ。そして輸送された物資を海上から花隈に移し、城内への輸送に成功した。 これを知った秀吉は、5月25日の夜に丹生山を落としさらに淡河城をも圧迫して城内外の補給路を断った。毛利方では、9月10日加古川より兵糧を搬入させようとしたが、これも遮断された。ここで秀吉は包囲網を縮め水中に網を張り、昼夜の警戒を一層厳重にしたので城内は完全に孤立し、専守篭城を余儀なくされた。 そして長治が頼みの綱としていた毛利軍は、各地での転戦を強いられ援護不可能な戦局化にあった。やがて1580年1月6日篭城軍の衰弱を確認した秀吉軍が城内に攻め入ると長治は開城降伏し自刃して果てた。 この戦いは‘‘三木の干殺し’’として合戦史上特筆される。 ここに秀吉は、播磨一国を平定し、一方毛利氏は3道併進策による東上作戦を変更せざるおえなくなった。 |
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