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河越夜戦 1546年 (天文15年) 埼玉県川越市 |
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| 勢力 | |||
| 足利晴氏 | 大将 | 北条氏康 | |
| 上杉憲政 上杉朝定 |
参戦 武将 |
北条綱成 | |
| 80000 | 兵数 | 8000 | |
| 敗北 | 勝敗 | 勝利 | |
| 後北条氏二代・北条氏綱が死去したとの報は、関東各地に広まった。それに乗じて扇谷上杉朝定は蠢動しだす。この動きに呼応して山内上杉憲政も動く。憲政は北条と今川の対立を見て、今川義元と結ぶ。 一五四五年八月に今井狐橋にて北条と今川が戦う。甲斐の武田も今川方で、安房の里見も北条と敵対していた。四方皆敵の様相を呈している。同年九月には両上杉軍が川越城を囲う。 この状況を見て、氏康の妹婿(義弟)の古河公方足利晴氏までもが上杉方につき、川越城の包囲に加わる。 これを収めようと動いたのが武田晴信(後の信玄)であった。北条と今川の仲介をして講和を成立させる。これにより北条は富士川以東の駿河を今川に返すことになった。後の甲相駿三国同盟の伏線となる。 この講和により氏康は東に全兵力を向けることが出来るようになった。 川越城では、北条綱成が三千の兵力で八万の攻城軍を前に半年以上の籠城を続けていた。氏康は八千の兵を以て出陣。だが正面からぶつかるようなことはせず、何度も戦うと見せかけては退却した。この後氏康は上杉に対して講和を申し入れるが(謀略の一環)、攻城軍は聞く耳を持たなかった。これにより攻城軍は増長し、北条軍を侮るようになった。 そして一五四六年四月、氏康は夜襲を決行。上杉方は具足を解いて熟睡していたため混乱を起こし、大損害を受けた。これを見て城方も足利晴氏の陣へ打って出た。 北条軍は大勝利を収めた。この戦いで、扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政は上野の平井城に、足利晴氏は古河に逃走した。死者は上杉方一万三千、北条方百名だったといわれている。 この合戦は両上杉に壊滅的打撃を与え、扇谷上杉は滅亡、山内上杉も六年後には越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ることになる。 この合戦は、厳島の合戦・桶狭間の合戦と並んで『戦国三大奇襲戦』と呼ばれている。 |
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