人取橋の合戦 目安地図

人取橋の合戦
1585年11月 (天正13年)
福島県安達郡本宮町
勢力 伊達家の家紋(竹に二羽飛雀)
佐竹義重 大将 伊達政宗
畠山国王丸
芦名義広
岩城常隆
相馬義胤
参戦
武将
片倉景綱
伊達成実
鬼庭良直(戦死)
留守政景
30000 兵数 7000
敗北 勝敗 勝利
 1585年10月、二本松城城主・畠山義継は、盟友・大内定綱が伊達政宗の攻勢により敗走したのを受け、伊達家に対し帰順を申し入れる。だが、政宗から信用を得られず断られてしまう。日の出の勢いの伊達家に刃向かう力のない義継は、なんとしても戦火を食い止めるために、情に厚い政宗の父・輝宗に口添えを頼みようやく和議へとたどりつく。しかし、ここで得られた回答は領土の大部分を没収という非常に厳しいものだった…
 10月8日、義継は和議を取り結んでくれた輝宗に礼を述べるため宮森城を訪れた。これは事件の始まりであった。義継は会見の途中で態度を一変させ、輝宗の喉に刀を突きつけそのまま連れ去るという行為に出る。
 家臣の通報により事態を知った政宗は義継を追跡し、阿武隈川を渡って自領へ戻ろうとしているところを発見する。輝宗は駆けつけた政宗に対し「将来に禍根を残すな。自分もろとも撃て」と命令し、政宗は泣く泣く輝宗及び義継とその家臣あわせて約50名を射殺した。
 この一連の事件に怒った政宗は輝宗の初七日の法要を済ませた後、13000の兵を率い弔い合戦として二本松城に攻め込んでいく。だが、二本松城の堅い守りのために攻め落とすことができず小浜城への退却を余儀なくされる。父を亡くし、復讐も果たすことができない政宗であったが、ここにさらなる試練が訪れてしまう。佐竹義重をはじめとする芦名・畠山・相馬・岩城ら諸大名が政宗の二本松侵攻を受け、反伊達連合軍を結成し伊達家討伐に乗り出すのである。

 11月17日、連合軍と伊達郡が阿武隈川西畔で激突する。連合軍は政宗が陣取る観音堂山に猛攻を加え、一時は本陣にも迫る勢いとなる。政宗は自ら槍を持たなければならないほど苦境に立たされたが、伊達成実の側面攻撃によって何とかこの危機を脱し、勝敗は翌日に持ち越された。
 しかし、日が明けるとそこに反伊達連合の姿はなかった。政宗にとってはなんとも幸運なことに、房総の里見勢が佐竹家当主・義重不在の隙をついて進軍を始め、これに備えるため佐竹勢が急遽退却、連合軍は撤退してしまったのであった。
 こうして政宗は人生最大の危機を乗り切ることができたが、兵を多く失い、宿将・鬼庭良直を失うという敗北同然の被害が急成長を続けていた伊達家に暗い影を落とすこととなった。

 この合戦で激戦地となった観音堂山の麓を流れる瀬戸川周辺は多数の死者が出たことから人取橋とよばれるようになり、この合戦は人取橋の合戦として語り継がれている。斎藤道三の花押

 

*家紋は播磨屋さんより、地図は白い地図工房さんより許可を得て転載しています。