布部山の合戦 目安地図

布部山の合戦
1570年 (元亀元年)
島根県能義郡広瀬町布部
尼子家の家紋(平四つ目結) 勢力 毛利家の家紋(一文字三つ星)
尼子勝久 大将 毛利元就
山中鹿之介 参戦
武将
毛利輝元
吉川元春
小早川隆景
6700 兵数 13000(15000?)
敗北 勝敗 勝利
 毛利元就によって滅ぼされた尼子家の再興を図る山中鹿之介・立原久綱らは、1568年、京都・東福寺で、尼子の血を引く僧を発見する。この僧は、新宮党抹殺の際に乳母の夫の懐に抱かれ落ち延びた党首・尼子国久の嫡男・誠久の末子・孫四郎であった。鹿之介はこの僧を還俗させ、尼子勝久と名乗らせ、尼子再興の柱として擁立した。
 翌1569年、勝久一行は京都を発ち、但馬、隠岐を経て出雲に上陸した後、勝久入国の伝令を発すると、5日後には勝久の元に三千の軍勢が集まった。(この頃、毛利元就が伊予・九州へ出兵していたため出雲は軍事的に空白地帯となっていた)尼子軍は新山城を攻略・入城後、徐々に旧領を制圧し、破竹の勢いで月山富田城に向かったが、天野隆重が守る天下の険城をなかなか落とすことができなかった。
 一方、北九州の立花山城を攻めていた元就はその囲みを解いて、大友氏の後押しを受け山口に乱入した大内輝弘率いる大内残党を退けた後、吉田郡山城に帰還した。そして1570年1月6日、元就は再び兵を率い、厳冬積雪をおして出雲に向かった。
 月山富田城南方約12Kmに位置する布部山で両者は決戦となったが、数で劣る尼子勢はその差を埋めることができず、軍略・軍勢で優る毛利勢の勝利となった。尼子勢は翌1571年に隠岐へ、さらに後には京都へと逃れた。

 月山富田城を拠点として勢力回復を図るという鹿之介の戦略がその攻略失敗によって崩壊したことが敗因の全てであった

 

*家紋は播磨屋さんより、地図は白い地図工房さんより許可を得て転載しています。